工作によって諸将の旗幟が鮮明になってきた5月13日(6月18日)、景虎が三の丸から退去して同日のうちに御館に移り、籠城して北条氏政に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城城下に放火を行うなど撹乱戦術を展開した。17日(22日)には約6000の兵で春日山城を攻め立てたが、撃退された。
景虎方は体勢を立て直し、22日(27日)も再び春日山城を攻めたが、結果は変わらなかった。この頃になると、他方面でも景勝方・景虎方の交戦が展開されていった。中でも上野では北条高広・景広父子が中心となり、三国峠を守る宮野城目指して進軍を開始した。この方面では景勝方はよく持ちこたえたものの景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方は後詰めを得られなかった景勝方の宮野・小川等の城をことごとく奪い、小田原の北条勢を越後へ引き入れる態勢を作り上げたのである。
ところが、氏政・氏照ら北条軍主力は、折しも鬼怒川河畔において佐竹・宇都宮連合軍と交戦中であり、遠方の越後に向けて早急に救援軍を派遣できる状況では無かったので、当面の策として同盟国の武田勝頼に景虎への助勢を要請した。これを受けて勝頼は、5月下旬に武田信豊を先鋒とする2万の大軍を信濃経由で越後に送り込み、29日(7月4日)頃に信越国境付近に到着した。
景虎はさらに、奥羽の蘆名盛氏・伊達輝宗らにも援軍を要請、これに応えて蘆名勢は蒲原安田城を攻略、さらに兵を新発田へと進めたが、景勝方の五十公野治長の頑強な抵抗に遭って食い止められた。とはいえ、この時点においては戦局は依然として景虎方有利であった。
三方から攻め立てられ形勢が不利になった景勝は、先鋒の信豊を通じて勝頼に「武田が充分潤うほどの金額の黄金」(『甲陽軍鑑』では「一万両」と明記しているが、正確な額は不明。「一万両」は誇張という見方もある)と上野沼田の武田領有(謙信死後に北条氏政が占領)、そして景勝・武田の同盟を提案して和議を申し入れた。
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景勝方に武田の内情等がどれだけ知れ渡っていたかは不明であるが、長篠の戦いで惨敗し、織田信長・徳川家康の圧迫を受けている時期に大軍を派遣してきたことに驚いている史料もある。景勝方が勝頼の一番痛いツボをどのようにして知ったかも不明だが、ともかく出兵に次ぐ出兵で金欠に苦しんでいた勝頼にとって、莫大な収入はまたとない吉報であった。しかし和議を申し入れられた側の信豊はあまりに話がうますぎると判断し、とりあえず勝頼の指示を仰いだ。その勝頼は6月に入って出陣したが、景勝方の和議が本気なのかどうかいまだ信じかねていた。
6月12日(7月16日)、海津城に入った勝頼は信豊と協議した結果、同盟締結を受け入れた。勝頼は小田原北条氏、特に氏政の動きが遅いことや家康の圧迫が日増しに大きくなっていたこともあり、景勝方との同盟を受け入れたわけであるが、結果的に勝頼のこの判断が乱の顛末のみならず、勝頼、ひいては武田家自体のその後の運命を半ば決めてしまう格好になってしまった。