2009年06月23日

ネットワークの変遷

1968年
11月3日 - 日本教育テレビ系列局として開局。一般番組のみHBC・STVから移行。開局時はフジテレビ制作番組もネットしていた(教育番組はHBCが民間放送教育協会から脱退しなかったため移行されなかった)。
1969年
4月1日 - 北海道全域でテレビ放送を開始。これによりHBCとの一部共有ネット放送が終了[5] 。
1970年
1月1日 - ANNに加盟。当初からマストバイ局である(ただし編成の空いた時間でのフジテレビ系番組のネットは続行)。
1972年
10月1日 - 北海道文化放送(UHB)の全道放送開始によりフジテレビ制作番組がUHBに完全移行(UHBは1972年4月1日に開局したが、全道でテレビ放送が開始されたこの日までの間は視聴者保護の観点から、引き続き放送していた)。
1975年
3月31日 - HBCと関西発全国ネット番組を交換(NET→テレビ朝日の関西準キー局がMBSからABCに変更されたことにより、いわゆる「腸捻転状態」が解消された)。

本社スタジオ
第1スタジオ(85坪・HD):「イチオシ!」「週刊とくのイチ☆」「Hit.com」等
ニューススタジオ(40坪・HD):「おはよう天気HTB」、各ニュース番組
※1980年の新館が完成するまでスタジオは現在のニューススタジオのみだった。


外部スタジオ
北海道警察本部記者クラブ、新千歳空港記者クラブ、各道内のHTB支社に報道用顔出しブース有。
HTB本社と札幌ドームの間は、距離が近いことから光ファイバーケーブルを使用した独自の中継回線で結ばれ、無線中継機器無しで中継が可能。

自社制作番組
深夜枠での自社制作番組が充実している。「水曜どうでしょう」を皮切りに「おにぎりあたためますか」、「ハナタレナックス」など、CREATIVE OFFICE CUE関連の深夜番組がヒットを放つ。中には地方局への番組販売やBS朝日・テレ朝チャンネルでの衛星波による全国放送に至った番組もある。
北海道日本ハムファイターズが北海道に移転してからは、札幌ドームと本社が近いこともあって光ファイバーケーブルで専用回線を結び、中継も土・日曜のデーゲームを中心に早い時期から行っており、道内のファイターズ人気を拡張する一つの要因になったとされている。試合生中継を除くファイターズ関連のローカル番組は、現在では「FFFFF」(エフファイブ・深夜番組)や「朝までファイターズ」(都合で札幌ドームでの生中継が出来ないときの深夜録画放送)を放送している。
このほか、スキージャンプやスノーボード番組「TOYOTA BIG AIR」(企画・中継)「NO MATTER BOARD」(冬季間のみ)といったウインタースポーツの放送も多い。

ネット番組

早朝?夜間
2006年4月2日より「渡辺篤史の建もの探訪」のレギュラー放送が開始された。北海道の住宅建築事情は道外と異なる点が多いが、放送されなかった理由は不明。テレビ朝日系列局では全国で唯一、放送されていなかった(過去には2005年1月3日に1度だけ、単発番組として1時間スペシャルが放送されたことがあった)。ただし、編成の都合でテレビ朝日の放映から約1か月以上の遅れが生じている。しかし、2007年12月22日土曜日の放送をもって打ち切り(後番組は「旅の香り」の再放送)となったものの、2008年4月5日より打ち切り以前の同時刻でレギュラー放送を再開したが、2009年2月に再び打ち切られ、その後ネット放送再開の動きがないことから事実上完全に打ち切りとなった。したがって本番組が放送されている隣接局の青森朝日放送が受信できる道南地方の一部地域を除いて地上波での視聴は一切できないが、BS朝日や朝日ニュースターの衛星波で放送されているため、最低でもBS朝日が視聴できれば北海道内でも視聴できないことはない。

ダイエット日記に挑戦
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2005年10月の改編で、同局のワイド番組『イチオシ!』の15:45放送開始に併せて「スーパーJチャンネル」の平日17時台のネット放送が開始されており、その影響からか、後に他局でもHTBと同様の改編がみられる。
2005年4月の改編では「ワイド!スクランブル」が11:25からに、また「Sunday!スクランブル」が放送開始された(2006年4月から11:45開始に)。
19:54から放送の事前・事後番組である「今夜のTVのチカラ」「氷川きよしの一番おいひぃ」「今夜の銭形金太郎」「伝説斬り」「ミニステ」(全て放送開始当初の番組名)が、キー局のテレビ朝日と同時ネットで放送開始された(テレビ朝日系列局として全国初)(HTB主催のイベント告知番組や番宣番組への差替でのネット放送休止や、2006年10月の秋改編から11月までネット放送休止もあった)。

深夜番組
「ネオバラエティ」は同時ネットだが、それ以降の時間帯は遅れ放送である。ただし、水曜は「水曜どうでしょうClassic」を放送しているため、同日30分遅れの放送となっている。
遅れ放送の番組で、その番組が「格上げ」される場合、その直前の数週分が放送されないことがある。(例:「BEST HIT TV」「さまぁ?ずと優香の怪しい××貸しちゃうのかよ!!」「くりぃむナントカ」)
「ネオネオバラエティ」がスペシャル編成の場合は同時ネットになる。但し、水曜は同時ネットか30分遅れかは定まっておらず、場合によって異なる。

ドラマ
2002年4月、テレビ朝日が「トゥナイト2」の放送を終了させるなど大改編を行うと同時に、HTBでもローカル枠の再編を行い、それに伴って金曜ナイトドラマ枠は「九龍で会いましょう」以降同時ネット化された(それ以前は週末の昼間、火曜の深夜などに放送されていた)。しかし、2002年10月からの「イヴのすべて」は放送せず、一部の地域と同様「トリック」の再放送を行った。2003年1月からの「スカイハイ」は同日時差ネットとなったが、最終週は「朝まで生テレビ!」を放送しなければならず、順送りになってしまった。同年4月からの「OL銭道」は1週遅れで、放送時間も23:15?24:15と独自に5分延長した編成となった。なお、同年7月からの「特命係長・只野仁」以降は、再び同時ネットが続いている。
平日の10時台は、韓国ドラマを独自放送している。

2009年06月09日

比例代表制は、19世紀後半にベルギーのヴィクトル・ドント

比例代表制は、19世紀後半にベルギーのヴィクトル・ドントによって考案された。空想的社会主義者のヴィクトール・コンシデランもこの制度を1892年の著書で考案した。スイスのいくつかのカントン(1890年のティチーノ州が最初)で採用された後、ベルギーが国として初めて1900年の国政選挙に名簿比例代表制を採用した。類似した制度が第一次世界大戦の間とその後にかけて多くのヨーロッパ諸国で施行された。単記移譲式投票は1857年にデンマークで初めて採用されて、最古の比例代表制となっているが、デンマークでは本格的に普及しなかった。単記移譲式はイギリスで(独自に)再考案されたが、イギリス議会はそれを退けた。しかし、タスマニア州で1907年に採用されると、そこから広がっていった。単票移譲式はアイスランド共和国で1919年より使用されている。
クラシック音楽
南極と北極
への付く言葉
ザ・和歌山
産業とは!
世界の演劇
慣用句集
かの付く言葉
七五三
靴に囲まれて
自転車
婦人科
香道
遺伝子疾患
洞窟
ジョギング
債券
クリケット
通訳
アメリカンフットボール

比例代表は、多数代表よりも多くの国で採用されている。欧州議会の全議員が、英国のブロックを含め、比例代表で選出される。比例代表は多くのヨーロッパ諸国でも採用されている。

イギリスの議院内閣制に基づく国々とイギリスのウェストミンスター選挙で古典小選挙区制がよく見られる一方で、小選挙区比例代表併用制として知られる比例代表の一種が、現在イギリスにおいてスコットランド議会とウェールズ議会の議員を選出するのに採用されている。

2009年06月06日

景虎の攻勢と周囲の加勢

工作によって諸将の旗幟が鮮明になってきた5月13日(6月18日)、景虎が三の丸から退去して同日のうちに御館に移り、籠城して北条氏政に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城城下に放火を行うなど撹乱戦術を展開した。17日(22日)には約6000の兵で春日山城を攻め立てたが、撃退された。

景虎方は体勢を立て直し、22日(27日)も再び春日山城を攻めたが、結果は変わらなかった。この頃になると、他方面でも景勝方・景虎方の交戦が展開されていった。中でも上野では北条高広・景広父子が中心となり、三国峠を守る宮野城目指して進軍を開始した。この方面では景勝方はよく持ちこたえたものの景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方は後詰めを得られなかった景勝方の宮野・小川等の城をことごとく奪い、小田原の北条勢を越後へ引き入れる態勢を作り上げたのである。

ところが、氏政・氏照ら北条軍主力は、折しも鬼怒川河畔において佐竹・宇都宮連合軍と交戦中であり、遠方の越後に向けて早急に救援軍を派遣できる状況では無かったので、当面の策として同盟国の武田勝頼に景虎への助勢を要請した。これを受けて勝頼は、5月下旬に武田信豊を先鋒とする2万の大軍を信濃経由で越後に送り込み、29日(7月4日)頃に信越国境付近に到着した。

景虎はさらに、奥羽の蘆名盛氏・伊達輝宗らにも援軍を要請、これに応えて蘆名勢は蒲原安田城を攻略、さらに兵を新発田へと進めたが、景勝方の五十公野治長の頑強な抵抗に遭って食い止められた。とはいえ、この時点においては戦局は依然として景虎方有利であった。

三方から攻め立てられ形勢が不利になった景勝は、先鋒の信豊を通じて勝頼に「武田が充分潤うほどの金額の黄金」(『甲陽軍鑑』では「一万両」と明記しているが、正確な額は不明。「一万両」は誇張という見方もある)と上野沼田の武田領有(謙信死後に北条氏政が占領)、そして景勝・武田の同盟を提案して和議を申し入れた。
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景勝方に武田の内情等がどれだけ知れ渡っていたかは不明であるが、長篠の戦いで惨敗し、織田信長・徳川家康の圧迫を受けている時期に大軍を派遣してきたことに驚いている史料もある。景勝方が勝頼の一番痛いツボをどのようにして知ったかも不明だが、ともかく出兵に次ぐ出兵で金欠に苦しんでいた勝頼にとって、莫大な収入はまたとない吉報であった。しかし和議を申し入れられた側の信豊はあまりに話がうますぎると判断し、とりあえず勝頼の指示を仰いだ。その勝頼は6月に入って出陣したが、景勝方の和議が本気なのかどうかいまだ信じかねていた。

6月12日(7月16日)、海津城に入った勝頼は信豊と協議した結果、同盟締結を受け入れた。勝頼は小田原北条氏、特に氏政の動きが遅いことや家康の圧迫が日増しに大きくなっていたこともあり、景勝方との同盟を受け入れたわけであるが、結果的に勝頼のこの判断が乱の顛末のみならず、勝頼、ひいては武田家自体のその後の運命を半ば決めてしまう格好になってしまった。

2009年04月22日

中央集権

中央集権の行政システムや組織では、組織全体から収集した情報を基に、一極の意思決定組織が全体を統括・管理する。

ピラミッド型の階層が形成されることが多く、上層が財源や決定権を持ち、下層になるほど機能が細分化されたり、財源や決定権が小さく制限され、上下方向の統制がより強化される傾向を持つ。

また、上意下達と情報収集の機関として、中間組織が形成される。特に行政における中央集権では、出先機関が多く設置される。

このような形態を採る行政制度や組織の特徴は、概ね次の通りである。

長所
上層部においては、全体的な情報を吸い上げることが容易であり、全体において何が起きているかを把握することが容易である。また、多くの情報を基に、全体一律に命令を下すことも可能である。
命令の上意下達や、権限の優先順位も決まっているため、決定と実行の間の確実性が高まり、責任の所在も明確になる。
大量・迅速を要求される物事では、実行が終わるまでの期間が短く済む。
全般に、少数の意思決定者には、行動の自由度が高まる。
統一的な判断により、規模の経済が発揮される。

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短所
情報を吸い上げる能力が低下したり、上層の判断能力が低下した場合には機能不全に陥る。下部組織(支社、営業所など)は決定権を持たないため、中央組織(本社)が健全に機能することが、運営上の必要条件である。
「大から小へ」の序列になるので、特に政治・行政においては、上層(国家)の立場や決定権が優先され、下層(都市や村落)の立場や決定権が軽視され易い。そのため、業務が画一的になり易く、個別案件への柔軟な対応が難しくなりがちである。
現場に委ねられる責任と権限が限定されるため、横方向(組織間など)の連繋が希薄になり、組織横断的な業務では情報伝達の阻碍、業務の遅延、非効率化が起こり易い。これは、俗に「縦割り行政の弊害」などと呼ばれる。
地方と中央との間で、情報や経済の格差が顕著に表れることが多い。

歴史
歴史は、一般的に中央集権と地方分権の循環である。傾向としては:

多数の勢力が分立して、その中で大きな力を持つ者が現れる。
他の勢力を支配下に収める。
中央集権国家が形成される。
中央によって形成された下部組織の中に、有力な者が現れる。
中央の権限が縮小し、多数の勢力へ分散される。
という循環が多く見られる。

近代以前に成立した中央集権国家では、最高権力者を国王などとする君主制国家が構成されている場合が多い。一方、現代に成立した国家では、最高権力者を大統領などとする共和制国家が形成される場合が多い。国王(王家)の存在は、その国が中央集権体制である、或いはかつて中央集権体制であったことの表れであるが、共和制国家については必ずしも分権国家であるとは限らない。

2009年04月18日

治水(ちすい)

治水(ちすい)とは、洪水・高潮などの水害や、地すべり・土石流・急傾斜地崩壊などの土砂災害から人間の生命・財産・生活を防御するために行う事業を指し、具体的には、堤防・護岸・ダム・放水路・遊水池(遊水地)などの整備や、河川流路の付け替え、河道浚渫による流量確保、氾濫原における人間活動の制限、などが含まれる。

水は人間生活にとって不可欠な資源であると同時に、水害や土砂災害などの危険ももたらす。水の持つ危険性を制御しようとする試みが治水であるが、一方で水を資源として使用するための制御、すなわち利水も必要となってくる。水の制御に取り組むという点において、治水は利水との共通性を持ち、両者に不可分の関係が生じるのである。そのため、広義の治水には、利水をも含むことがある。

治水に当たる英語はflood controlであるが、これは単に洪水調節のみを意味する。日本語における治水は、洪水調節のほか、土砂災害を防ぐ砂防や山地の森林を保安する治山をも含む、意味範囲の広い用語である。

いかなる治水対策を講じたとしても、全ての水災害を防ぐことは不可能である。どの水準の水災害までを防御するか、換言すれば、どの水準の水災害までを許容するかが、治水対策を行う上での立脚点となる。

歴史

概観
治水の始まりは、文明の始まりと強い関連性がある。世界四大文明に代表される多くの文明社会では、その草創期に氾濫農耕が行われ、農耕の発展により生産物余剰が蓄積されて都市が発生し、都市住民の維持を目的として、安定した農耕体制を確立する必要に迫られた。安定した農耕を確立するためには、治水と潅漑の導入が不可欠であった。治水・潅漑の導入には、労働力の集約を要したが、この労働力の集約を通じて初期国家が形成されたと考えられている。また、文明が発祥した地域の多くでは、洪水が毎年定期的に発生したので、洪水時期を推測するための暦法や天文学が発生し、治水構造物を作るための土木技術や度量衡なども発達した。

歴史上における治水技術は、主に台風・モンスーン地帯にあたる東アジアで発達していったが、近代的な治水技術は、ヨーロッパの中でも低地に国土を拡げてきたオランダで著しい進展を見せた。19世紀 - 20世紀以降は、高度に発達した土木技術を背景に成立した近代的治水技術によって、水害による被害が著しく軽減されたものの、20世紀末期頃からヨーロッパを中心に、それまでの治水技術が自然環境に大きな負荷を与えていたことへの反省がなされ、自然回帰的な治水を指向する動きが強まっている。一方、多くの発展途上国ではいまだ十分な治水対策がなされず、繰り返される水災害に悩まされている地域も少なくない。

メソポタミア・西アジア
最古の治水の歴史を有する地域の一つがメソポタミア(シュメル)である。メソポタミアでは、紀元前5000年までに2本の大河 - ティグリス川・ユーフラテス川の氾濫原で農耕(氾濫農耕)が始まったとされている。同地域での治水・潅漑の開始時期は、後期ウバイド文化期の紀元前4300年 - 紀元前3500年頃と考えられている。この時期の治水は、洪水時に河川から溢流した水を人工のため池に貯水するものであり、人工池の水はその後、用水路を通って農耕地へと供給された。すなわち、治水は潅漑と表裏一体の関係にあった。

紀元前18世紀頃にメソポタミアを統一したバビロン第1王朝のハンムラピ王の時に、ティグリス・ユーフラテス両河の治水体系が整備された。両河川の流域では毎年5月に上流の雪解け水に由来する洪水が発生していたが、洪水時の溢水を収容するため、両河川を結ぶ数本の大運河と、大運河を連結する無数の小運河の大運河網が作られた。これにより洪水の被害が軽減されるとともに、運河に溜められた水は潅漑に利用された。

ハンムラピ王期に建設された治水体系は、その後、アケメネス朝(紀元前6世紀 - 紀元前4世紀)・サーサーン朝(3世紀 - 7世紀)に継承され、アッバース朝前期(8世紀 - 9世紀)には、運河網が再整備されるなど、非常に長い間命脈を保った。しかし、10世紀以降は政治体制の混乱に伴ってメソポタミア地域の治水は次第に衰退していき、イルハン朝(13世紀中期 - 14世紀中期)およびオスマン帝国(14世紀 - 20世紀前期)において治水体系の再建が試みられたこともあったが、バビロン王朝盛時の高度な治水体系が再び復活することはなかった。

エジプト
古代エジプトもメソポタミアと同じく、ナイル川という大河川の氾濫原に農耕が発生した。ナイル川上流域(エチオピア・ウガンダ周辺)では毎年6月に雨季が訪れ、多量の降水がナイル川に注がれる。多量の雨水はナイル川の長い流路を下っていき、9月 - 11月に下流域のエジプトへ洪水となって押し寄せる。この定期的な洪水は、氾濫原に肥沃な土壌を残すとともに土中の塩分を洗い流したため、ナイル川下流域における高い収穫率をもたらした。このため、エジプトでは古代以来、洪水を防御するための治水はほとんど行われず、もっぱら潅漑技術が発達していった。

近代に入り、1902年にアスワン・ダムが完成し、さらに1970年、アスワン・ハイ・ダムが完成すると、ナイル川の洪水はほぼ制御できるようになった。しかし、下流域では洪水が発生しなくなった代わりに、土壌の貧弱化・塩化が進み始めたため、以前は必要としなかった肥料に頼る農業へと転換していった。

インダス・南アジア・インド
インダス川河畔でインダス文明が興ったのは、紀元前2600年頃のことと考えられている。インダス川流域では、毎年6月 - 7月の時期にモンスーンの到来によって雨季が訪れる。雨季の降水はインダス川の氾濫を起こしたが、氾濫原には肥沃な土壌と農耕用水の水源となる湿地が残された。インダス文明期には、洪水期前になると川に沿って低い土手が作られた。この土手は洪水を防ぐものではなく、洪水によってもたらされた肥沃な土壌を耕地に貯め込むためのものだった。そのため、メソポタミアやエジプトのように潅漑が発達することはなく、氾濫農耕に依存していたと考えられている。インダス文明の農耕は洪水を前提としていたので、水害を防ぐ治水はほとんど行われていなかった。

その後、インド亜大陸では、ガンジス川流域を中心として潅漑水利の発達が見られたものの、水害を防ぐという意味での治水はほぼ存在してこなかった。インドにおける治水の始まりは、1947年のインド独立以降のことである。1948年に開始したダモーダル河谷総合開発事業がインドの治水の嚆矢であり、その後、1954年のインド大洪水を受けて「全国治水計画」が策定されるに至った。全国治水計画のもとで1万kmを超える堤防が建設されたほか、各州ごとに州治水政策に基づいた治水対策が行われているが、まだ十分な水準に達していないとされている。
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ヨーロッパ
ヨーロッパは、安定した地質の構造平野が広がり、河川は構造平野を掘り下げるように流れるため、洪水時の氾濫原となる沖積平野はあまり広く形成されていない。台風やモンスーンによる多量の降水もないので、水害が発生する頻度も、例えば東アジア地域と比較すると、高くはない。

ヨーロッパで治水が特に発達したのはオランダである。オランダは、ライン川、マース川、スヘルデ川の河口デルタに立地し、かつ海面を干拓して土地を拡げたため、国土の大部分が海面と同等か、それより低い。オランダでは水害を防ぐため、河床を浚渫して河川流量を確保し、河川・海岸沿いには堤防をはりめぐらせ、さらに高潮対策として河口に堰を築くという、近代的な治水技術が早くから成立した。

オランダ以外のヨーロッパでは、治水の歴史に特筆すべきものはない。ヨーロッパ各地で本格的な治水対策が始まったのは、20世紀以降のこととされている。ヨーロッパでは洪水による冠水は頻繁に発生しないため、河川付近の氾濫原を農地などに整備し、堤防を築いて河道を直流させ、上流にはダムを設置するという、水害を人工力で抑制しようとする治水対策が、20世紀に入ってから主流となった。しかし、こうした治水対策は自然環境に大きな負荷を与えるばかりでなく、人工力を超える水害が発生した際は、かえって被害が大きくなることが次第に判明していった。

1970年代頃から、人工的に整備された河川を自然の姿に近づける試みが、スイス・西ドイツ・オーストリアを中心に始まり、1980年代になると、近自然的治水工法が本格的に採用されていった。例えば、かつて氾濫原だった箇所を再び遊水池に復旧させる事業や、直流していた河川を蛇行させ、自然の姿に近づけ、河川を取り巻く生態系を再構築する事業などが精力的に実施されている。21世紀におけるヨーロッパの治水は、必ずしも洪水防止のみを主眼に置くのでなく、自然環境の観点から河川を良好な状態に保ち、良質な水源として維持する河川環境復元へとシフトしつつある。水害が比較的少ないヨーロッパでは、治水対策より河川の水質保全が重視される傾向にある。

なお、ヨーロッパの治水管理の現況に触れておく。ドイツでは各州が河川管理を行い、水系一貫型の治水ではない。100年に一度規模以上の水害を想定して治水事業が進められ、21世紀初頭までにほぼ達成されている。フランスでは、洪水防御の義務を負うのは中央政府ではなく、河岸所有者であり、中央政府・自治体だけでなく住民も治水に対して相応の責任を有している。オーストリアでは、都市域は100年に一度規模以上、都市以外の地域は30年に一度規模の水害に耐えうる治水が行われているが、大河ドナウ川については、非常に高度な治水対策が施され、1万年に一度規模の水害を防御しうる治水対策が達成されている。全般的にヨーロッパ各国では、氾濫原を復元し、氾濫域内の土地利用を制限する政策が採用されている。

アメリカ合衆国
アメリカ合衆国における治水は、19世紀末まで堤防に頼る地先防御が主流だったが、1917年の洪水防御法の制定によって本格的な治水対策が始まり、陸軍工兵隊と開拓局が中心となり、ダムの建設や河川改修などが行われた。この時期は、テネシー川流域開発事業に代表される大規模な流域総合開発が展開した。この流域総合開発は、大規模ダムの建設などによって、治水だけでなく水資源開発や発電開発などを実現しようとするもので、世界各地の治水対策に大きな影響を与えた。

1960年代から、堤防などハード(構造物)中心の治水対策の限界が見え始め、氾濫原管理やソフト対策を重視した治水へと移行していった。この時期に始まったソフト面での治水対策として特筆すべきは、連邦政府が運営する全米洪水保険制度(NFIP:National Flood Insurance Program)である。この制度は、洪水に伴うリスクを個人が負うのではなく地域コミュニティが負担することを原則としており、ソフト面治水対策の大きな柱である。

1970年代頃からは、河川の自然環境の保全・復元が注目されていき、環境保全とバランスの取れた治水対策が求められていくこととなる。同時期にヨーロッパで始まった河川環境の復元事業は、アメリカにも導入され盛んに実施されている。1980年代からは、州政府や自治体による治水が中心となった。1990年代以降、ミシシッピ川大洪水(1993年)やハリケーン・カトリーナ水害(2006年)などの大規模な水害が発生しているが、ソフト面に重点を置いた治水による総合的な対応が精力的に実施されている。

2009年04月04日

ちゃんこ鍋

ちゃんこ鍋(ちゃんこなべ)とは、主に大相撲の力士や日本のプロレスラーが食べる鍋料理である。

なお「ちゃんこ」とは本来、力士の食事そのものの事を指す。鍋だけがちゃんこと思われがちだが、それは誤りである(後述)。しかしながら、力士の食事は、相撲を行うための体格を身につけるために、鍋料理を食べることが多く、それが広く知れ渡ったのがちゃんこ鍋である。

「ちゃんこ」と「ちゃんこ鍋」 [編集]
相撲部屋でのちゃんこの調理は、ちゃんこ番の力士が「ちゃんこ長」を務め、主に幕下以下の力士が自ら調理を行う。長年ちゃんこ番をしている力士がちゃんこ長を務めるという伝統から「料理がうまい力士は出世しない」と言われることがある。しかし力士が廃業した後、そこで身に着けた調理法を活かし、ちゃんこ料理屋を開業して主にちゃんこ鍋を提供することが多く、そこから広く一般的に知れ渡っている(後述)。プロレスラーの場合はプロレス団体の道場において、当番の若手レスラーや練習生が作るのが一般的である。

ちゃんこ鍋は昔からソップと呼ばれる鶏ガラでダシをとることが多いが、これは人間と同じように二本脚で立つ鶏から縁起を担ぐ意味も込められている。また鶏ガラが細身であることから、現在でも細身の力士をソップと呼んでいる(肉付きがよく下腹に締まりがない力士は「あんこ」)。これに関連し、古くは「手をつく」=「負ける」という連想から、縁起を担ぐため牛や豚などの四足動物の肉を使うことは避けていたが、現在では使われている。また白星を連想させることから、具として肉団子を入れることが一般的になっている。

ちゃんこ鍋のベースとなる味付けは、醤油や味噌だけでなく最近では塩もあり、特定の味付けは存在しない。相撲部屋によってはキムチやカレー粉、ホワイトソースなどを用いて飽きがこないように工夫し、数多のバリエーションを作り出しており、各相撲部屋ごとに、その部屋独特の作り方もある。なお相撲部屋においては常食となっているため、中に入っている具も取り立てて、これが入ってなければならないというものはないが、蛋白質摂取のため肉や魚が具の中心となっており、場合によっては他の鍋料理(水炊き・すき鍋・ちり鍋など)をそのまま流用して調理することも多い。また、近年では各種生活習慣病を予防する観点などから、栄養士の指導の元、野菜類などを多めに入れ、栄養バランスに配慮したものを作っている部屋も珍しくない。

ただし料理店で出されるちゃんこ鍋については、伝統的なイメージからか上述の肉団子や、キャベツや白菜、うどんなどが入っている事が多い。またそれぞれ主たる材料や味付けに合わせて、「鶏ちゃんこ」とか、「味噌ちゃんこ」といった言い方をする。

語源と発祥 [編集]
「ちゃんこ」の語源には諸説様々な話があり、現在でも特定されていない。

まず、「ちゃん」が中国のことで「こ」が中国語で鍋のことだという説があるが、これは長崎で鉄製の大きな中華鍋を「チァングオ」と呼んでいて、長崎に巡業した力士が料理をその鍋で作ったことにより、後に訛って「ちゃんこ」と呼んだとされる。

また「ちゃんこ」は中国そのものを指す言葉だという説もあるが、これは「鍋」と「国」は中国語で似た音だからである。長崎の人が中国から来た鍋を「中国(ちゃんこ)鍋」と呼んでいて、当地に巡業した力士がその料理を「ちゃんこ鍋」と呼んだのではないかというのである。長崎ではこの鍋の名は、後に略して「ちゃんこ」となったとする(かぼちゃの名前の付け方と同様とされる)。

これとは別に、親方と弟子の関係から親方を「父(ちゃん)」弟子を「子(こ)」と置き換え、師弟共に食べるものを「ちゃんこ」と呼ぶようになった説もある。

さらに、マレー語のcampur(チャンポール)→チャンプルー(沖縄)→チャンポン(長崎)から由来したとの説もある。

ただ、いずれの説にせよ既に「ちゃんこ」という言葉が使われていた頃から、言葉の意味としては鍋料理ではなく力士の食事全般を指していたようである。

鍋料理としての「ちゃんこ」が確立されたのは明治時代であり、常陸山谷右エ門が所属していた頃の出羽海部屋において入門者が大量に集まり、一般的な配膳では食事に支障をきたすまでになったため、効率的な面から大きな鍋で作ったものを大勢で共に食べるようになり、これがやがて力士の常食になったと言われている。

なお常陸山は料理番をしていた古参の力士に対し、親しみも含めて「父公(ちゃんこう)」と呼んでいた事も伝えられている。

日本プロレス界にもちゃんこを持ち込んだのは始祖である力道山で、豊登や芳の里など角界出身者が多かったことに由来する。やはり角界出身のグレート小鹿(現・大日本プロレス社長)や大熊元司ら元日本プロレス(日プロ)勢が多く在籍していた全日本プロレスは日プロの味を踏襲している。新日本プロレスでは1980年代末からの一時期、若手レスラーが「ちゃんこ番が大変です」との理由から、副社長だった坂口征二が調理人を道場の管理人兼任で雇っていた(現在は賄い人と若手レスラーの共同作業という)。

外食産業としてのちゃんこ鍋  [編集]
ちゃんこ鍋は外食産業の一分野としても成立している。

ちゃんこ鍋屋、ちゃんこ料理店と呼ばれる形態の店舗は外食産業の中でも比較的古くより存在しているもので、これについては大相撲を引退した関取や、関取までは成れなくとも力士時代はちゃんこ番として長年腕を振るった力士が、力士引退後に転業したものが多い。店舗の名称については自身の力士時代の四股名の他にも、知名度を借りる形で付け人をしていた関取や、出資者となった関取、親方の現役時代の四股名などが主に用いられる。また、成立の経緯からして相撲文化と直結している料理であり、このため両国界隈の他、地方場所の開催がある大都市、名古屋、大阪、福岡などにはちゃんこ料理店が多い。また、この様な店であるため、とくにちゃんこ番経験のある力士にとっては、自身で開業はしなくとも力士引退後の再就職先となる事も珍しくない。

この事もあり、上述されている通り両国界隈および相撲開催のある土地がちゃんこ料理屋の中心地とも言える場所となっているが、昭和後期以降には広範囲にチェーン展開を行う企業も見られている。近年では元横綱若乃花の花田勝が経営する株式会社ドリームアークが「Chanko Dining 若」というブランド名で全国規模どころか海外進出までをも果たし、さらには大相撲の懸賞の提供企業になるなどしており、2000年以降のこの業界では台風の目ともいえる存在になっている。

派生した俗語  [編集]
「ちゃんこの味がしみてない」は、入門後間もなく発展途上であったり、相撲界のしきたりになじみきれていない力士を指してよく言われる。近年では学生相撲からスピード出世した関取に対して揶揄的な意味でも用いられる。もともとは、初代若乃花の二子山の口癖であったとも、相撲解説者の玉ノ海梅吉の言葉だったとも伝わる。
古くは後援者からの祝儀の意味もあった。「これでちゃんこでもしてくれ」などの様に言ったが、それも一回の食事代くらいのものではないのが通例だったらしい。大関昇進後間もない栃錦が、「ちゃんこだ」と言われて紙包みを押し付けられ、弁当か何かかと思ってみてみると100万円だったという逸話が、自伝の中に見える。

デッド トリーニ タンク ジョブ ドン カール スモッグ トレーパッ オール 豊の国 チョッパ ナビ男爵 チェリモヤ チロシン ジャーニー バラモン サイン えさん ミリメシ アカシア きんぱく リべリ サンサ シパール 時遊館 ティビティー シャクナゲ セーフ フューチ ナルシス スルピリド タウポ リンク デジカメ くんかく リラ リアクン ジェンダー ドラフト ユニコード モアレ ルナリア ドリル プーリ オルガ ライトバン サーチ霊芝 愛の技 セロット ミッド

2009年03月20日

カトリーヌ・ブリコネーのホール

天井には横梁が露出している。

ドアの上にある大理石のメダイヨンは、カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアから持ち込んだもので、ガルバ、 クラウディウス、ゲルマニクス、ウィテリウス、ネロといったローマ皇帝を表している。

17世紀に特注されたタペストリー6枚組は、ヴァン・デル・ミューレンのスケッチに基づき、狩の場面を表している。


5人の王妃の寝室 [編集]
この寝室は、カトリーヌ・ド・メディシスの2人の娘と3人の義理の娘を記念して、このように名づけられた。娘とはアンリ4世の妻マルグリット・ド・ヴァロワ、フェリペ2世の妻エリザベート・ド・ヴァロワであり、義理の娘とはフランソワ2世の妻メアリー、シャルル9世の妻エリザベート・ドートリッシュ、アンリ3世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンである。

16世紀の格間天井は5人の王妃の紋章を表している。暖炉はルネサンス期のものである。

壁には16世紀フランダースのタペストリーのセットがかけられている。題材はトロイヤの包囲とヘレネの誘拐、コロッセオの円形劇場の試合、ダビデ王の戴冠である。別のタペストリーはサムソンの伝説を題材としている。

家具は大きな四柱式寝台、木製多彩色の女性頭部の飾りがついたゴシックの祭器棚2つ、鋲のついた旅行用チェストである。

壁にあるものは以下:

ルーベンス……「賢人への崇拝」現在はプラド美術館に保管されている大作の習作。
ミナール……「オロンヌ公爵夫人の肖像」
17世紀イタリア派……「アルゴナウテスのアドメテ家のアポロン」

カトリーヌ・ド・メディシスの寝室 [編集]
この寝室には、16世紀の美しい彫刻が施された家具と、サムソンの生涯を題材にした16世紀フランダースのタペストリーのセットがある。タペストリーの縁はことわざや寓話を象徴する動物で埋められている。例えば「エビとカキ」もしくは「技能は狡猾に勝る」の寓話である。

暖炉と床のタイルはルネサンス期のものである。

ベッドの右手には、コレッジョの「愛の教え」がある。ナショナルギャラリーにあるものはカンバス地に描かれているが、ここにあるものは木に描かれている。


版画展示室 [編集]
これらの小規模な部屋を飾る天井と暖炉は、第1室は18世紀、第2室は16世紀のものであり、どちらの部屋にもシュノンソー城のスケッチや版画を展示している。このコレクションの最も古いものは1560年、新しいものは19世紀のものである。


ヴァンドーム公セザールの寝室 [編集]
この部屋はアンリ4世とガブリエル・デストレの息子ヴァンドーム公セザールを記念したもので、彼は1624年にシュノンソー城主となった。

注目点は以下:

露出した横梁が最も美しい天井。横梁は装飾されたコーニスを支える。

ルネサンス期の暖炉には、19世紀になってトマ・ボイエの紋章が描かれた。西に向かった窓の木製枠には、17世紀の女性立像が2つ刻まれている。

壁には17世紀ブリュッセルのタペストリー3枚のセットが飾られている。タペストリーはデメテルとペルセフォネの古代ギリシア神話を題材としている。

美しい縁はブリュッセル製の典型で、コルヌコピアから溢れ出た果実や花の花綱を表現している。この部屋の4柱式ベッドと家具は、16世紀のものである。窓の左には、ムリーリョの「聖ヤコブの肖像」がある。


ガブリエル・デストレの寝室 [編集]
この部屋はアンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレの寝室で、彼女の息子ヴァンドーム公セザールは認知された。

横梁の見える天井、床、暖炉、家具はルネサンス期のものである。4柱式ベッドの側に、16世紀フランドルのタペストリーがある。

他の3方の壁に下げられたタペストリーはたいへん珍しく、「ルーカスの月」として知られる。

6月 - 蟹座(羊の毛刈り)
7月 - 獅子座(狩りをする鷹)
8月 - 乙女座(刈り取り人への支払い)
そのスケッチはルーカス・ヴァン・レイデンかルーカス・ヴァン・ネヴェレによるものである。 キャビネットの上には、17世紀フローレンス派が聖セシリア(音楽家の守護聖人)を描いたキャンバスがある。ドアの上には、フランシスコ・リバルタの「神の子羊」がある。
チャリティー ギアチェ ハンドカ ブートニア あらいそ ソフロニ 潮風の迷子 さらべつ マーキ キャンディ ジェット シャドウ ギガビット 花御所 クロサス インス 氷の炎 ブラフ バーター オサォー ヤッケ テール ファウスト サマー シンジュ ユーディ リニア サーチワキ ケース かしど トロンビン シービー ヨモギ サーチャ ビブラ オータム ギニア ダイス フリー プレカリ ノンポリ テトロン マハー あぜみち しゃりき マッスル プロビジ ビュライト ロードシ カの風


3階のホール [編集]
このホールは、19世紀の修復作業の影響を受けていない。修復は、ヴィオレ・ル・デュクの弟子の一人ロゲによってなされた。

19世紀ヌイイのタペストリーはシェール川を象徴しており、その中にはヴェネチアのゴンドラが描かれている。ゴンドラは19世紀、実際にシュノンソー城に持ち込まれたもので、ゴンドリエは当時のオーナーのペルーズ夫人である。2つの祭器棚と床石は共にルネサンス期のものである。

2009年03月05日

クラーケン(Kraken)

クラーケン(Kraken)は、その多くが巨大なタコやイカのような頭足類の姿で描かれる、北欧伝承の海の怪物。

ノルウェー近海やアイスランド沖に出現したとされている。 19世紀のアフリカ南部はアンゴラ沖に現れた海の怪物もクラーケンでなかったかと言われている。
Kraken は、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語)に見られる krake (クラーケ。意:pole、post、竿、棒、柱)に -n が付いた定冠詞形である。 この語は英語の crook (意:湾曲した杖、羊飼いの杖〈shepherd's crook〉、司教杖、等)や crank (意:捻じ曲がったもの、曲がりくねったもの、変わり者、つむじ曲がり、奇想のもの、〈機械の〉クランク、〈道路の〉クランク、等)とゲルマン語派のレベルで同根であり、怪物クラーケンの怖ろしい湾曲性の腕を想起しての名付けであったことが伺える。

その後、北欧においてこの怪物の名は「畸形的な動物」を意味するようになっていたらしい。 ここに見られる「畸形」の語義は英語 crank の中にもニュアンスとして現れている。

古代スカンディナヴィアのサガに「クラーケン」の名は見られない。 しかし、類似する海の怪物として hafgufa と lyngbakr を挙げることができる。 これらは『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』中のエルヴァル・オッド(Orvar-Odd)の物語などで語られている。
オメガ みしょう リプロヘル ひらがね 神の手 マップ るりこん ウシュ とよのか ブランデー タイプ リンギット ストール スキット ダビデ ケトル アグリ リーマン カサブ ラリアット ブライ バーン レジオ シザ イリノイ 誠の旗 こりんき サンキライ ひすい えーがた オーロ マルチ ジルコン セコンド ラダーラ ハラル アシン リトラコ リバティ フリー ヘメロ シャチ モッズ ロータリ タォマ ザール ハウリン もちがせ 紅の水 ダン

姿・大きさ
クラーケンの姿や大きさについては諸説がある。 巨大なタコやイカといった頭足類の姿で描かれることが多いが、ほかにも、シーサーペント(怪物としての大海蛇)やドラゴンの一種、エビ、ザリガニ等の甲殻類、クラゲやヒトデ等々、様々に描かれてきた。

姿がどのようであれ一貫して語られるのはその驚異的な大きさであり、「島と間違えて上陸した者がそのまま海に引きずり込まれるように消えてしまう」といった種類の伝承が数多く残っている(日本で伝承される赤鱏〈あか-えい〉の島もこれに類似する)。

15世紀アイルランドの聖ブレンダン伝承に登場するクラーケンの場合は、島と間違えて上陸したブレンダンが祝福のミサを終えるまで動かずにいたと伝えられる。体長は2.5kmに及んだというこの“穏やかな”クラーケンには、クジラがその実体ではなかったかとの憶測がある。実際にクジラには漁業神や海神と見なされる側面があり、このような逸話が世界中に数多く存在する。

また、18世紀ノルウェーの司教ポントピダン(Erik Pontoppidan)が記すところでは、クラーケンが吐いた墨で辺りの海が真っ黒になったとされ、ここでは頭足類の一種と認識されていたようである。

※クラーケンを動物、とりわけ頭足類の一種と考えるのであれば、どれほど巨大であってもマッコウクジラやシャチといった天敵の存在が想定されるため、離脱用として煙幕のように墨を吐く機能を保持していることは生態的に自然ではある。

海の魔物
古代から中世・近世を通じて海に生きる船乗りや漁師にとって海の怪は大きな脅威であり、その象徴ともいえるクラーケンは、彼らから怖れられる存在であった。

凪(なぎ)で船が進まず、やがて海面が泡立つなら、それはクラーケンの出現を覚悟すべき前触れである。姿を現したが最後、この怪物から逃れる事は叶わない。たとえマストによじ登ろうともデッキの底に隠れようとも、クラーケンは船を壊し転覆させ、海に落ちた人間を一人残らず喰らってしまうからである。
というような伝承が語り継がれた。船出したまま戻らなかった船の多くは、クラーケンの餌食になったものと信じられていたのである。それは近代においても変わることが無く、幽霊船マリー・セレスト号が見つかったとき(1872年)、この船が無人となった理由として様々な検証・憶測がなされたが、その中には「乗員が全てクラーケンの餌食になった」という説も存在した。

科学の時代に
現代的な船舶は自走能力が高く風の有無にかかわらず航行可能であるため、仮にクラーケンが実在したとしても襲われることはまず無い、という考え方がある。勿論これは「船舶が故障や燃料切れを起こしておらず、十分な自走能力を備えている」「船舶自体に十分な大きさがある」「クラーケンのサイズや運動能力が一定の範囲内に収まっている(全長が数kmに達する活発な生物であれば、タンカーや空母級の船舶を襲う事も考えられる)」といった場合の話である。加えて、この怪物が北欧の海に特有であると限るようなことでもない。

巨大頭足類
クラーケンのモデルではないかと取り沙汰されることの多いダイオウイカ(Architeuthis)は現生最大級の頭足類(巨大イカ)であり、平均全長約10m、信用に足る最大個体の記録は全長約13mである。しかし、推定全長20mともされる不確定記録がある。 これを上回るダイオウホウズキイカ(Mesonychoteuthis hamiltoni)は現生最大とされ、その全長は14mに及ぶ。やはり、推定全長20mともされる不確定記録がある。 深海生の彼らには謎が多く、推論、あるいは希望的憶測を生む要素を十分に持っている。

フィクション
映画
『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』では、深海に潜んでいる巨大なイカがドラえもん達を襲うシーンがある。
ギリシア神話をモチーフとしたレイ・ハリーハウゼン監督の特撮映画『タイタンの戦い』(1981年アメリカ製)に登場するクラーケンは、「ワニのような皮膚、魚の鰭(ひれ)様の大小の突起物を持つ人型の胴体に、手と爪があり関節の無いタコの触腕様の4本の腕、嘴(くちばし)のある竜ともサルともつかない頭部を具えた、異形(いぎょう)の巨大怪獣」として描かれている。この一種独特の個性を放つクラーケンのイメージは、それ自体が、後に続く多くの海の怪物・怪獣に大きな影響を与えている。
1998年のアメリカ映画『ザ・グリード』では、客船を襲った正体として巨大なタコの化け物が登場する。このタコは触手にも口があったため当初はワーム類の一種と推測が立てられていたが、終盤でその全体像が明らかになった。
2006年のアメリカ映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』には、幽霊船の船長デイヴィ・ジョーンズに操られるタコのような触手と、イカのようなエンペラを持ったクラーケンが登場する。
東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』にも、クラーケンをモチーフとした大蛸(おおだこ)が南海の怪物として登場する。もっとも、造形的には巨大化したマダコ以外の何ものでもない(場面の多くは本物のマダコを撮影している)。なお、この大蛸は『ウルトラQ』では「大蛸スダール」として登場している。
小説
小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品『クトゥルフ神話』に登場する古代の邪神クトゥルフは、クラーケンをイメージに多分の影響を受けて創作されている。
栗本薫の小説『魔界水滸伝』に登場するダークパワーの首魁クトゥルーは、その姿から「クラーケン」と呼ばれることがある。
ゲーム
ゲームの世界では敵方として登場することが多く、特にロールプレイングゲームでは頭足類をモチーフとしたモンスターとして中ボスなどの強敵に設定されることが多い。『ファイナルファンタジー』に登場するものなどはその典型と言える。

2009年02月13日

グリーングリーン2 恋のスペシャルサマー

緑河 豊(みどりかわ ゆたか)
記憶喪失の主人公。素っ裸で入学式に行ってしまう。
川瀬 真菜 (かわせ まな)
声:塩山由佳
身長:158cm・体重:42kg。祖父からカメラをもらって以来、常にカメラを持っている。カメラが趣味なのだが、下手の横好きで一向に上手くなる気配がないことを悩んでいる。そもそもピントが合わせられない。
ニンソウ フウラン ヒップ バビリン 竹の舞 しずくいし ヤッピ つばめ くりたけ クラー うたま ウシや ガーズ オーデエ タッチ じょうぼう モウセン セプタム パラセ スパイク フェロ くらし やさしい サブミッ コール スイマー フラン フマン スモー ちずい バスラ ほこたし クロムダ プレパラー つるむ レターイン ストーン イルミネ スピンタ イルマン ルリナ テスト ばなな メリー コリン パーベ リッチ かずら ドライト オリジ

柊 麻理亜(ひいらぎ まりあ)
声:観村咲子
身長:161cm・体重:40kg。父は鐘ノ音学園理事というお嬢様。かなりタカビーである。また上級生にも物怖じしないまっすぐな性格で、ごく一部の学生に絶大な人気を持っている。取り巻きが居ないときは、一人でボーっとしている。学園の前時代的な野蛮さに辟易していて、何とか学園を変えたいと思っている。
丘野 ひまわり(おかの ひまわり)
声:新千恵子
身長:142cm・体重:35kg。天真爛漫でちょっと子供っぽく、わりと天然な感じで性格もやや幼い。自然の多い鐘ノ音はかなりのお気に入りで、蝶を追いかけたり花を眺めたりしている。家庭内暴力が原因で鐘ノ音に来た。
松浦・ルーシー・美夏(まつうら ルーシー みか)
声:青山美帆
身長:158cm・体重:45kg。ハーフの帰国子女。国外での生活が長かった為、挨拶や感謝のキスが気軽に出てしまい、男子からは非処女と思われている。鐘ノ音での生活に大きなギャップを感じているが、慣れる気もないらしい。髪の毛の色は元々は黒。
ヘルス
声:高戸靖広
本名は佐貫新太郎(さぬき しんたろう)。身長:162cm・体重:63kg。自称・地獄を見てきた男。入学式でばっちり決めるためにパーマをかけたが、見事に失敗している。その後はオールバックになった。名前の由来は英語で「地獄」というスペルを「HELTH」と間違えたため。バッチグーの再来とも言われている。実はイイ奴。
ツツミ
本名は堤康隆(つつみ やすたか)。身長:155cm・体重:51kg。ビジュアルが男性器そのもののかわいそうな人。最初は鼻までマフラーを巻いているが、のちにそれをとり、銀色のネックレスをする。怒ると人が変わったように一気にまくし立てる。夜這いに行く時などに「男を立てる」という理由で最初に行けと言われる。結構イイ奴。
ホセ
声:龍谷修武
本名は保瀬範康(ほせ のりやす)。身長:182cm・体重:80kg。新入生なのに、老け顔のため上級生などに間違えられる。体が大きいのに、租チンで悩んでいる。また、髪の毛が薄いのにムースをいっぱい使う。変な口癖を持っている。また、徳川埋蔵金を手に入れるために鐘ノ音学園の裏山を日々掘っている。すごくイイ奴。
モッさん
本名は山本保(やまもと たもつ)。身長:174cm・体重:87kg。普段から何を喋っているのかわからず、聞き取れるのはツツミと小野カツ子くらい。アニメの絵がうまいが、それをオナニーのおかずとして使われると怒る。実は結構スケベ。
バッチグー
声:田中一成
本名は伊集院忠知(いじゅういん ただとも)。前作の3バカの一人。新総長の天神を影から操る、実質は影の総長。相変わらず暴走しており、エックスTシャツも健在。三年生になったことで、下級生を奴隷のように使役して好き勝手な毎日を送っている。語尾に付く「?っしょ」が口癖。
一番星 光(いちばんぼし ひかる)
声:土門仁
前作の3バカの一人。参謀役として、天神を操る。最近は将来のこともまじめに考えてるらしいが、やっぱり女のお尻を追いかける。童貞を捨てたかどうかは不明。後輩には意外にやさしい。
天神 泰三(てんじん たいぞう)
声:浜田賢二
前作の3バカの一人。九州男児でロリコン。新総長であるが、バッチグーと一番星に操られている。パワーがものすごく、廃校反対運動の時は彼が興奮して暴れてしまい、二年寮・三年寮が陥落してしまった。
毒ガス(どくガス)
声:高橋あきお
本名は子安ケンタ(こやす けんた)。前作も登場したキャラ。前作同様いじられキャラだが、今回は後輩にもなめられている。カメラを手に学内をうろついては隠し撮りを行う不審者。
高崎 祐介(たかさき ゆうすけ)
声:私市淳
前作の主人公。三年生になり今回はボイスありでサブキャラとして普通に出てくる。朽木双葉と別れて元気がない。『みどりシナリオ』では重要なキャラ。
朽木 双葉(くつき ふたば)
声:藤巻恵理子
前作も登場したキャラ。三年生で現在祐介と付き合っているが別れた。
千歳 みどり(ちとせ みどり)
声:中山さら
前作の登場キャラで、1000年後の未来から来た未来人。未来で年を取ったため、今回は新任教師として登場する。彼女が鐘ノ音学園で過ごしたことは、祐介たちの記憶から消されている。しかし過去に2回も鐘ノ音で過ごしているため、天神たちとの相性は抜群である。未だに祐介のことが忘れられない。
堀田 健一(ほった けんいち)
声:神谷浩史
誰もが恐れる鐘ノ音学園の先代総長。鐘ノ音学園廃校の危機を知り、総長のOBを集めて学園を助けに来るアツイ男。
轟 やすし(とどろき やすし)
声:高橋あきお
学園の教師。相変わらず生徒をすぐヤカンで殴るなどするが、廃校の時には理事長に土下座して廃校取り消しをお願いするなど、実はすごく生徒想い。そのためか、三年生達は口には出さないものの、すごく信頼している。
緒方 和夫(おがた かずお)
学園の用務員のじいさん。今回はチアリーダー部の顧問になったり、猫の世話をしたりと活躍する。
理事長(りじちょう)
鐘ノ音学園の経営者であり最高権力者。柊麻理亜の父でもある。資金面の問題から、鐘の音学園を廃校にしようとする。
OB(おーびー)
先代総長・堀田健一が声をかけて集まった歴代総長達のこと。ほとんどが建築業・不動産業などの会社を経営しており、彼らの寄付のおかげで鐘ノ音の運営が今まで出来ていた。そのため、理事長に対する発言権も大きい。
亀頭 棒太郎(きとう ぼうたろう)
鐘ノ音学園校長。名前もさることながら、そのビジュアル自体も相当危ない。
小野 カツ子(おの かつこ)
声:御崎朱美
食堂のおばさん。最近は色気を出す努力をしているらしい。もっさんの言ってることがわかる、数少ない人。

2009年01月27日

外国メーカーに出された質問書への回答

翌1986年(昭和61年)に外国メーカーに出された質問書への回答が寄せられ始めたが、内容の不備や、10年後に採用する戦闘機を現代のスペックで測るという前提が強い反発を受けたため、2月と4月に再質問書を改めて送付した。7月には外国メーカーより「所要の改造を加えることで要求性能は満たすことが出来る」との回答を受けた。10月にF-16およびF/A-18は「能力向上型の共同開発」の提案が、トーネードは「能力向上」の提案を受領した。

日本側も国産案で国論を統一していたわけではなかった。日本の国産兵器の能力に全幅の信頼を置く人間ばかりではないからである。特に生産数の少ない国産装備品は、価格面で輸入品に太刀打ちできない。今回のFSXの選定においても、外国機導入の検討も当然のことと認識されており、国外への調査団は派遣されるたびに詳細な資料の収集を重ねていた。
ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット

実際、F-1/T-2の開発の際にも防衛庁内部に強力に外国機導入を主張する一派が存在した。大蔵省(現財務省)とのパイプを持つ彼らは、アメリカのT-38とF-5の組み合わせこそがコストパフォーマンスに優れ、配備予定期日を守ることができる唯一の方法だと強力に主張していた。確かに当初の予定であればF-X導入までに超音速高等練習機を国内開発することは不可能であり、導入を決定したF-4EJファントムIIが複座であることから、これを機種転換に充てるという手法で、運良く戦闘機パイロットの養成スケジュールを消化する目処が立ったために、T-X国内開発の時間的余裕が出来たようなもので、そうでなければ国内開発は時間切れで断念していた可能性もあった。

さらには、予算が付かない限り試作も出来ず、完成予想図しか出せない国産案が具体化するには、アメリカが「エンジンだけ」の販売認可を出すことが大前提であった。だが、100機程度(防衛庁の当初計画では141機。後述)のそれほど大きくない市場とはいえ、米国は当時の対日貿易摩擦の最中で、エンジンの販売だけで納得する航空メーカーもなければ、政府が政治的に対日譲歩を行う余裕があるはずもなかった。欧州製エンジンの導入についても、欧州機が毎回選定から外れる理由、すなわち根本的な性能の不足を甘受する気が自衛隊にない以上、今回も当て馬以上の存在となり得なかった。それらを撥ね除けて、「エンジンのみ」の調達を図る政治力を発揮できなかったことが、国産案の不幸であった。

国際共同開発の模索
1986年(昭和61年)12月には、「国内開発」「現有機の転用」「外国機の導入」の三択のうち「国内開発」を「開発」と改め、「アメリカとの共同開発」をこれに含めることとなった。年が明けた1987年(昭和62年)、栗原祐幸防衛庁長官(第3次中曽根内閣)はFSX選定にあたって下記の三原則を示した。注意すべきは第2項目で、軍事的な相互運用性(インターオペラビリティ)を確保できることとの注釈がついていた。

防衛上の技術・専門的見地から、日本の防衛にとって最善のものを選定する。
日米防衛協力体制の重要性を踏まえる。
内外の防衛産業の影響を排除する。
1987年(昭和62年)4月11日より米国防総省の調査チームが来日、三菱重工業名古屋航空機製作所、三菱電機鎌倉製作所を視察[3]、防衛庁で日本側と意見交換を行った。この時、三菱重工は調査チームを招いて、自らが描いた「FS-X」の説明を行った。国防総省側は、日本政府がどの程度出資を行い、どのような戦闘機を生み出そうとしているのかを総合的に判断するための派遣であった。一方の三菱は「FS-X」を生み出す力が備わっていることを印象付けるために、この調査団の査察を受け入れた。 この際、三菱側が明かしたFS-Xに盛り込もうと構想していた最先端技術は、主に以下の通りである。

主翼を新素材の一体成形で製造する技術(炭素系複合材)
最新鋭のレーダー技術(フェイズド・アレイ・レーダー)
ステルス技術
CCV技術
この中で、特に調査団を驚かせたのは新素材技術である。従来のように鉄板を張り合わせるのではないため、ボルトや留め具を必要としない。また、理想的な形に成形するのが容易であり、鉄より強くアルミニウムより軽いことから機体の大幅な軽量化、航続距離の延長、ミサイル搭載数の増加が望める。 また、独自開発したフェイズド・アレイ・レーダーの披露も行われた。三菱側の技術者は、同時に複数の目標を捉えられるその性能から「とんぼの眼」と呼んでいた。査察を終えた調査チームは、技術力そのものよりも到達目標の高さに注目した。査察チームの一人は「「ニューゼロファイター」だ。日本は新たなゼロファイターを創り出そうとしている」と、漏らしたという[2]。

その後、調査チームは「日本は官民一体となって国産FS-Xを目指しているが、研究開発コストは莫大なものとなる。また、部分的に優れた技術を有しているが、総じてアメリカの戦闘機が持つ技術水準には及ばない」との報告書をまとめた。この報告結果から、「高度な技術と開発への熱意は認めるが高額な航空機開発への見通しが甘く、費用対効果の点で疑問がある。F-16もしくはF/A-18の改造開発、それで要求性能を満たせない場合はF-14もしくはF-15の購入が適当である。」との所感を表明した。この当時の日本のFSX開発予算の見積りは1650億円であった。実際には倍額となったが、アメリカは自国の実績から独自に6000億円が必要との見積りを立てていたため、「日本が独自に開発した場合、FSXが予算超過で頓挫する」ことを懸念した。知日派、親日派であっても、コストパフォーマンスの点から米国製導入を薦めた理由である。

6月28日、東京都内のホテルで行われた栗原防衛庁長官とワインバーガー国防長官の会談では日本側より「日米共同開発で新しくFSXを開発したい」、アメリカ側より「米国の戦闘機を日米共同で開発してはどうか」との意見が交わされ、日本単独の開発を示す「国内開発」は事実上の終焉を迎えたが、これは同時にアメリカ製戦闘機の輸入またはライセンス生産要求の終焉でもあった。

日米共同開発の決定
7月に欧州のトーネードが候補から外され、F-15、F-16、F/A-18を改造母体として日米共同で開発することが提案された。9月に提出された防衛庁の委託を受けた航空機・エンジン・電子機器の5社からなる民間企業合同研究会の「共同開発の可能性」についての調査報告は以下のようなものであった。

F-15改造案はステルス性を除いて性能上の問題はないが所要経費が高い。
F-16改造案は開発経費、量産単価ともに安価であるが離陸性能、ステルス性などに性能上の問題がある。
F/A-18改造案は性能上の問題はないが開発経費、量産単価ともに高く、また艦上機であることからこれを安くする見通しが得られず、また機体とエンジンの同時開発であることからリスクが大きい。
順位としては F-16 > F-15 > F/A-18 であったと言われる。経費が高いとされたF/A-18であるが、マクドネル・ダグラス(MD)が日本側提案を受け入れ大きな改造範囲を認めたことから、民間企業合同研究会はこれを高く評価しており、一方、F-16はジェネラル・ダイナミクス(GD)が当初提案した双発改造案も引っ込めたうえで、航空自衛隊の双発の要求には事故率の実績を挙げて反発していた。日本側はGDに対し非公式にF-16がF-15とともに候補に残っていること、改造範囲の要求を認めるなら単発機であっても採用しうることを伝え、これに対し機首再設計、複合材料の使用、アビオニクスの日本製機器の搭載を認める回答があった。

10月2日、ワシントンD.C.で開かれた栗原防衛庁長官とワインバーガー国防長官の会談では、「改造母機はF-15またはF-16」「いずれのメーカーを採用するか早急に決定する」「そのためにメーカーと国防省担当者を派遣する」ことが合意された。10月12日、13日は国防省とGD担当者が、10月14日、15日にはMD担当者が航空自衛隊と話し合いを持った。17日にも話し合いは継続したが、防衛庁としてはこの時点で採用メーカーは確定していたといわれ、21日に方針を決定した。

10月23日、首相官邸小食堂では「次期支援戦闘機に関する措置」を議題にした安全保障会議が開かれた。この席上で西広防衛局長は検討の経緯について説明した後、「支援戦闘機F-1の後継機FSXに関する措置については、日米の優れた技術を結集し、F-16を改造開発したい」と結んだ。出席した閣僚からの質問もほとんど無いまま、中曽根康弘首相の「どうも、ごくろうさんでした」という言葉でこの決定は承認された。中曽根内閣は翌月に退陣して竹下登が首相となり、計画を引き継いだ。

翌1988年(昭和63年)4月1日、航空幕僚監部技術部は「次期支援戦闘機室」を設置した。6月2日には瓦力防衛長官(竹下内閣)とガルーチ国防長官との会談で、次のような日米共同開発の基本条件が合意された。

計画管理は防衛庁が実施する
主契約者は日本企業
開発費は防衛庁が負担する
FSX開発で得られる技術情報は、全て防衛庁に帰属する
開発プロジェクトのワークシェアは、米側が60%
TSC(技術運営委員会)を設置する
11月29日、主契約者を三菱重工業、協力会社を川崎重工業・富士重工業・ゼネラル・ダイナミクス、日米のワークシェアリングは「日本6:アメリカ4」の日本優位とした「日本国防衛庁と合衆国国防省との間のFS-Xウェポン・システムの開発における協力に関する了解事項覚書」(開発MOU)が締結された。なお、ゼネラル・ダイナミクスは、1992年(平成4年)12月に航空機部門をロッキードへ売却したため、同時に協力会社も引き継がれた。さらに、ロッキードは1995年(平成7年)3月にマーティン・マリエッタと合併してロッキード・マーティンとなり、協力会社が引き継がれた。